2009/09/26

さぁ、どうしようか

藝大の院試が終わり、まぁ、結果は知らんわけですが、期待はし過ぎないように、
いたって平常心のまま、つかの間の夏休みを満喫したり、社会復帰したりしてるここ数日。

にゃおとはもう卒制の準備始めてるみたいだけど、しばらく何にも追われない人間らしい生活を送りたいんで、建築のことを忘れたいんですが、職業病ですかね、なんとく卒制のことはイメージしてみてます。

先日の院試の面接では、元倉真琴さんとゆっくり話すことができました。
とはいってもほんの10分弱でしたが、ボクのポートフォリオを見ながら、作品のことを説明したり、
そこから横国の建築と藝大の建築のスタンスを話したりと、
元倉さんにお世話になれるかは別として、かなり濃密な時間になったことは確かです。

ボクは横国の建築のイメージとして、都市を都市として解くことを求められてると思ってました。
綿密なリサーチの結果見出された、社会の盲点、あるいは隠されたポテンシャル。
それらから新たなシステムやプログラムを見出し、それを空間化していく、とでもいうんでしょうか。

ここで求められる新しさっていうのは、選んだ敷地おいて、その敷地での生活を劇的に変えることのできる、でも単純明快なシステムやプログラムをもってその地特有のリアリティを構築することなのかなって。

例えば、茅野市民館は、人々がホームへ向かうのに必ず通る跨線橋から下る階段に、アプローチを兼ねた図書ルームというプログラムを導入することで、寒い上に地方路線特有の長い電車の待ち時間をもった茅野駅での過ごし方を劇的に変えていますよね。

それは、とても素敵なことで、こういった想像を膨らませることができるのが建築家の特権なんでしょうけれど、ひねくれすぎてるんですかね。なんかモヤモヤが消えないんですよ。

それらのシステム・プログラムが実現できれば、それ以上のことを建築空間には問われないこと。
それと、さっきの茅野市民館の話でいうと、茅野市民以外の、僕ら建築学生であったり、あるいはただの観光客にはそのリアリティが享受できないこと。
じゃ、建築学生や、観光客相手のプログラムをもってくればいいか。それは違う。
ある対象のみを想定してリアリティを構築している以上、その補集合となる対象が存在してしまうのは必然で彼らに対するリアリティを求めること自体が矛盾なのか。

なんだろう、もう少し普遍的に都市に向き合いたいのかな。
サイトスペシフィックじゃなくて。
それでいて、身体的にやりたいんだよね。
でも、なんだろ、身体的って。未だによくわかんね。ヒューマンスケールとかの問題じゃないし。

そんなスタンスのはっきりしない状態で、さっきの元倉さんの面接に挑んだもんだから、

『どんな建築家になって、どんな建築をつくりたいんだい?』

って質問に、うまく答えられませんでした。


そしたら、そんなボクを見兼ね、元倉さんはこんなことを言ってました。

『横国の人たちは、都市を都市として解かなければいけないって勝手に自分たちを縛りつけている。都市はもっと身体的に解けるはずなんだ。』

ハッとした。

多分ボクが今やりたいことは、都市を身体的に解くことなんだって。

さっきもいったけど身体的ってよくわかんないけど、非常に魅力と可能性を感じる。

藝大の結果はわかんないけど、元倉さんとの面接で、自分のスタンスははっきりした。


ボクは、卒制で、都市を身体的に解く。


それがわかっただけでも藝大を受けてよかったのかなって。



で、具体的にはね、火山はやめ。
今は開口に興味があります。

ある2つの世界の境界の接点である開口をもっとデザインしなければいけないと思ってます。

その開口が都市を変えうると思ってます。

多分、様々な開口の特徴を身体的に抽出して、プロトタイプ化し、
それを実際の都市に落とし込んでいくっていうアプローチになるのかな。

今はそんなイメージの段階。

ま、10月入ってから考えよう。

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